【似て非なる、孤独とお一人様】

 

新聞の投書欄に、高校生の疑問が掲載されていました。

『病院へ行って診察を待っていると、近くの人たちの話が聞こえてきた。「〇〇さん、今日は来てないなあ。どっか具合悪いんやろか。」というような内容だったが、そもそも病院はどこか調子が悪いから来るところであって、元気なら来る必要はないし、あの人たちは何をしに来ているのか。』と。

 

若いなあ()

 

高校生くらいなら、よほど調子が悪くならないと病院へはいかないでしょうか。高校生のそれとは違うのだけれど、子どもがいると、これまた余程でないといかない。年配の方の病院通いは、持病の薬だったり、様子見の検診だったり。身近に祖父母や同年代の人がいなければ、疑問に思うのも不思議はないかもしれません。膝が痛い、や、血圧の薬が手放せない、などなど調子の悪いところはあっても外へ出かけることができる、ということ自体が元気の指標でもあるのですが、高校生の元気とは、またイメージが違うことでしょう。

 

年配の方の病院通いは、医療行為を受けるという本来の目的だけでなく、一種の社交の場でもあるのだろうと思います。いつも出会う顔を確認し、いろんなことをおしゃべりする。家でジッと閉じこもっているよりは、着飾る訳ではなくても身だしなみを整えて出かけることは、ずっと精神的に良いでしょう。病院でなくて、いつでも気が向いた時に立ち寄れるような場所があると良いのかもしれません。最近、週に一度や月に一度などの頻度で施設の一室を開放して『おしゃべり広場』などを開催していたりしますが、昔の田舎であれば、個々の家にわざわざ訪ねて行かなくても縁側や庭先、お寺や神社の境内など、半屋外のような気軽に寄り道をしてお茶を飲みながらおしゃべりができる、そんなところがわりとあったように思います。子ども会、婦人会、地域の消防団。いろんな年代の人が集まり、近所に住んでいる人たちのことは誰もが大体把握していてしばらく見かけなければ、様子を見に訪ねて行ってみる。プライバシーとは正直無縁な世界ですが、そこで子どもたちも人との関わり方や遊び方などを身につけていたのだろうと思います。私自身、住んでいるのは郊外の新興住宅地で、隣に住んでいる人の事なんて全く知らない、というほどではないにしろ、顔がわかるのは子どもの同級生のお家と向こう三軒両隣、くらい。真横に三軒離れると、ほとんどお付き合いはなかったりします。

 

それでも、フルタイムで働いている人であっても、女性はなんとなく何処のお家の人だな、と知っていたりいろんな情報を把握していたりします。同じフルタイムで働く大半の男性は、呆れるくらい近所の事を知らなかったり。古来より、子育ての大半を担ってきた女性は、他の女性と協力する必要があったため、おしゃべりの内容、相手の表情などからもいろんな情報をキャッチし、話せない乳幼児の様子を感覚でとらえてきたため、いろんな情報を一瞬で繋ぎ合わせる能力に長けていると言われます。同時に複数の事をこなしていく料理もそうですが、女性のほうがマルチタスク能力が高いと言えるでしょう。

 

子どもの頃は、家に帰って誰もいないと、隣のお家の人が入れてくれたり、ご飯を食べさせてもらったり。ちょっと今使う分がないから、と味噌や醤油を借りに行ったり。そんなことが『当たり前』でした。いまは、ずいぶん住宅事情も変わり、次々と住宅地ができて新しいお家がポンポン立ち並び。。。かと思えば、数件に一軒は空き家のようなところがあったり。治安安全面からの空き家対策が急務なところもあれば、貸し渋りが急増していたり。

 

近年、孤独死が増加していることもあってか、高齢者への貸し渋りが増加していると言われます。賃貸か持ち家のどちらがお得か、というような雑誌の特集も少なくありませんが、年を取るにつれて賃貸の条件が厳しくなるのなら、持ち家の方が安心かもしれません。賃貸もずっと同じところに住んでいれば大丈夫かというとそうでもなく、更新時に断られたり退去を求められるケースもあるとか。場所によっては、もっと若い現役世代でも貸し渋りが起こっているようです。孤独死というと高齢者をイメージしがちですが、何度も問題となったこともあり、一人暮らしの高齢者向けにさまざまな見守りサービスが増えてきています。郵便局でも、月に一回、週に一回、など様子を訪ねていくサービスがあります。田舎では、働いている人も地元の人が多いこともあり、顔見知りの人が配達ルート上のお家を訪問する、というのは安心できる取り組みであるかもしれません。

 

 

問題は、現役世代の孤独死。前述のように近所付き合いもほとんどなく、休日に友人たちと会うわけでもない。未婚の50代の女性と男性では、会社外での人付き合いには大きな差があるかもしれません。女性は転居などがあっても比較的カルチャーセンターに通ったり、趣味でお付き合いがあったり、仕事とは違うコミュニティを持っている人も少なくありません。しかしながら、男性は、となると会社以外のコミュニティをお持ちの方は少ないかもしれませんね。

 

孤独死と見られる死者の数は年間3万人とも言われます。20154月から20182月の間では50代以下が約4割を占めているそうです。1日のタバコの本数が15本、と聞くと体に悪そうだな、と感じるでしょう。『孤独』は、それと同程度の健康への影響があるとか。そして、孤独死の7割ほどは病死とも言われています。実際にタバコを15本くらい吸っていて人付き合いも少ないとなると、30本を吸っているようなもの、ということでしょうか。加えて、日本人はがまんすることが美徳のような節もあります。家族の誰かが要介護となって常に人手がいる、自身が大きな病気と言われて誰にも言えずに一人で抱えて、身動きが取れなくなって仕事を辞めてしまい、さらに人との関わりがなくなる。民官で、探せばいろんなサービスや相談できる場所があったりするのですが、困っている、助けてほしい、そういった事を誰にも言えずに一人で抱え込んでいる人も少なくないのでしょう。

 

 

核家族化が進み、繋がりと言えば同世代、学校などの横の繋がりがほとんど。昔のように地域全体での縦の人付き合いはずいぶん減少しているように思います。ああ、おじいちゃんおばあちゃん達は、あんな困り事があるんだな、という実体験が無い、極端に言えば、お葬式を経験したことがない若い世代もかなりいるのではないでしょうか。見せるのはかわいそうだから、と子どもを預けてお葬式に行く人もいます。一見、子どもを心配しているようで、実はちょっとねじ曲がった優しさではないかなと感じます。連れて行くと騒ぐから、という気持ちもあるのでしょうが、騒いではいけない場所があること、その場の悲しみの雰囲気。表現できなくても、子どもはいろんなものを感じ取ることで、成長の種になるのだろうと思います。自分自身が悲しいという経験がなければ、他人の悲しさを知る由もないわけで、コミュニケーションがうまく取れないという人は、そういった経験が少ないこともあるのかもしれません。

 

 

他人と関わると面倒だから、という人もずいぶん増えているようです。家族と同居していても孤食ということも言われます。自身の心身になんの問題もなければ、特に困ることもないのかもしれません。でも、何かトラブルが起きた時に相談できる人がいるのといないのとでは、雲泥の差があります。同じ1人でも、『孤独』と『お一人様』とでは全く違うように。三人寄れば文殊の知恵、とはよく言ったもので、自分と全く同じ情報しか持っていない人は、皆無でしょう。少し違う見方が入るだけでもすんなり解決したり、自分が知りたい事を教えてもらったことは少なからずあるでしょう。話す、というのは放すであるとも言われます。自分から離れる事で落ち着いたり、誰かの役に立ったりしているかもしれない。井戸端会議というのは、ただ油を売っているのではなく、そこに住む人達にとって重要な情報交換の場であり、精神安定の場でもあり。要らぬ被害を被ることもあったかもしれませんが……。現代ではプライバシーも重要ですが、もう少しいろんな人と付き合ってみるのも大事ではないかな、と思います。

【艶のある人生を】

 

 断捨離や超ミニマムな生活。いくぶん落ち着いたような感はありますが、相変わらずのお片づけブーム。

確かに「それ、要らないよね」と思われるものを溜め込んでいるお家も多いようです。実家がキッチンと浴室をリフォームした時。置いておこうか、という母に「前に使ったのはいつ?」となんど聞いたことか。景品でもらった時のままの保存容器。数年前に使用期限が切れて、中で液体が個体になっている洗剤や入浴剤。同じ柔軟剤の空き容器が3つ4つ。食品類もどれだけ捨てたことか。。。不要な物は『片付けてはいけない』オーラを出しているとか…。真偽の程は不明ですが、片付けて掃除をして、部屋の空気がかわった!そんな経験はだれしも持っているでしょう。家賃やローンなど、住まいに払っているお金。一部屋が物置のようになっているのであれば、物置のためにお金を払っていることにもなりますね。見ないフリをしてやり過ごすのか、不要な物は処分して快適な生活を送るのか。あなた自身で選べるはず。

 

不要な物を置いておく必要はありませんが、必要と思われる物はきちんと準備しておかなければなりません。お葬式は予測できないから準備が間に合わなくて……と言い訳する人がいます。予測できないからこそ、前もって準備しておかなければなりません。ここ数年、大きな災害が頻発しています。災害に備えて1週間分の食料備蓄を、と言われます。南海トラフへの備えは2週間分とも。水だけでも相当な保管場所が必要で、1日に2リットルとは言っても、きっとコレだけで足りるわけではなく、必要超最小限として、生きていくに必要な、2リットル。実際、日々何気なく使っている量とは比べものにならないはずで、3リットルは確保を、とも。ご飯にしても、単純に142パック。1日だけなら我慢できても2週間ご飯のみ、では無理があります。おかずやおやつ、紙皿にお箸…。考えるとちょっと気が遠くなりそうなほどのものが必要になります。量が多いということは、それだけのスペースが必要でもあります。今時のマンションは収納スペースが多いというものの、正直、家族が4人ならちょっと難しいかも、というくらいな量です。

 

この夏は本当に暑く、災害があちこちで頻発した夏でもありました。しょっちゅうニュースで流れていても、何かが起こるとスーパーの棚から商品が消え、カセットボンベがなくなり、子どものオムツやミルクが無い、医療機器が使えない……台風21号の後でも「大阪に台風がくるなんて思いもしなかった」そう言った知人の多かったこと。みんなどこかしら『他所での出来事で私はダイジョウブ』……少なからずそう思っている節があることは否めないと感じます。とは言うものの、そこばかりに注意を向けると、日々の生活が立ち行かなくなりかねません。必要なもの、と言っても、家族の中ですらそれぞれに違うものが必要。必要な物・不要な物・彩りとして欲しい物・コレだけは譲れない物。家の中にあるものを振り分けておくだけで、気分的にもスッキリするのではないでしょうか。

 

家を建てるために設計打ち合わせをしていた友人が「それ、要りませんよね。って担当者に言われるのよね。」とよく文句を言っていました。実家が回り廊下のあるようなお家だったらしく、廊下も欲しい、と希望を出したところ「廊下、何に使うんですか?そのスペース要りませんよね。」玄関ホールを広めに、と言うと「そこに住めませんよね。」といった具合。。。。確かに、街中の住宅はいかに効率よく限られたスペースを使うか、が大きなポイントでもあります。トイレもお風呂も最小スペース、廊下は不要、ホールすらスペースが取れないこともあります。最近、和室を作らないお家が多いのも、効率化の影響だろうと思います。そう言った『生活に必須』ではないスペースは、実は精神的なゆとりだったりします。

 

玄関を開けるとすぐにキッチンやリビングでは、意識はしていなくてもなんとなく『ゆったり落ち着いた』空間であるとは思えませんよね。季節ごとに室礼を、をなると、非常食と同じく、これまた結構な収納スペースが必要になります。掛軸なんて、予想以上に高額だったりもします。これを必要とみるか、不要と切り捨てるか。なくてもお腹が空くものではありませんし、寝られない訳でもありません。が、少し季節を先取りしながら掛軸や花を設える。これをしようと思うと、多少なりとも心にゆとりがないと出来るものではありません。仕事が忙しくて、気づいたらカレンダーが前月のままだった!なんていう経験のあるかたも多いのでは?よく言われることですが、ココロが亡くなると忙しい。脇目も振らずに仕事をする、というのもいいとは思いますが、過ぎたるは及ばざるが如し、とは上手く言ったもの。延々と続くと、何かが壊れます。

 

 物だけではなく、人間関係すら最小限な人も多いでしょう。今や生活に必要なもの全てがネットで買えますし、お葬式の焼香までドライブスルーがあるご時世。これを便利と思うか味気ないと感じるか。コミュニケーション力が圧倒的に不足している人が増えたというのは、これが便利と思う人が多くなっているからでもあるでしょう。効率最優先であるならそれもいいでしょう。けれども、豆ごはんや栗ご飯、お花見やお月見。そんな季節の楽しみがあるからこそのココロ豊かな暮らし。四季があるからこその愉しみ。そんな風に艶のある暮らし。効率一辺倒よりも楽しそうでしょ?

【自分の常識他人の非常識】

 

30年に一度もないような、と言われる今夏の暑さ。子供の頃は「暑さで人は死なない」と言われていましたが、なんのその。毎年、立秋といえども暑さはまだまだ、という感はありますが、こうも暑いといくら旧暦と言えどもかけ離れ過ぎて立秋って何だったかな?という気分です。立秋は、太陽黄経が135度になった瞬間を言います。こちらは、天文学の世界で、暦としての立秋は、135度になった日と、処暑前日までの期間を立秋としています。長期予報では、10月ごろまで高温推移のようです。みなさまくれぐれもご自愛ください。

 

立秋や春分、大暑、処暑などの季節の変わり目を表す『二十四節気七十二候』。昔は農作業にも使われ、今よりも生活の中に溶け込んでいたでしょう。誰もが知っている常識のように。個々人の意見や権利などが昔よりも明確になっている現代は、価値観もずいぶんと多様化しています。自分自身にとっての常識が、他の人にもそうであるとは限りません。

 

とは言うものの、最低限のマナーなどは社会人ともなれば身に付いていて当然のようにみなされます。会社を休む連絡に、電話ではなくメールなんて非常識、と言われた頃もありましたが、いまやラインならいいけれどメールは書き方がわからない、という時代。育った環境だけでなく、世代間での隔たりも大きいものでもあります。百貨店の商品券売り場で働いていた頃は、結婚祝いや出産祝いのお返しは『半返し』と言われていました。すでに四半世紀近くも前になりますが…この2ヶ月ほどは意外なお返しが続き、初めはびっくりしてこれはどうかしら?と思いましたが、続くということは、今の230代の『お返しの常識』はこんなものかもしれません。

 

全国共通のように思える『冠婚葬祭の常識』も、地方によって驚くような風習があったりします。それでも、やはり『一般的』と思われる常識もありますね。婚だけでなく、葬儀の際にも首を傾げたくなる人を必ず数人は見かけます。まだ社会にでて間のない人だと、喪服を持っていない、という方も少なくありません。若いうちは高額なものである必要はないと思いますが、夏・冬の一揃えずつは準備しておきましょう。喪の色、というと黒を思うでしょうが、黒ならオッケー、というものではありません。靴のヒールにガラスビーズがびっしり、キャンバスの大きなトートバッグ、シャネルのチェーンバッグ、真っ赤なリップにラメアイシャドウ。ラインストーンでキラキラなネイル。喪の場面には、そこに違和感なく溶け込めるくらいでなんらおかしくはないし、それを出来る人が、本当にセンスのある人だと思います。身だしなみを調えておくべき場であっても、オシャレをする場、ではない。体調が悪くて行った病院で、ちょっと小汚い先生が出てきたら、不安になる人が多数かと思います。身だしなみ、とはそういうものであって、オシャレとはまた別な意味合いがあるものでしょう。

 

数年来、ブログを楽しみに読んでいる、マナーコンサルタントさん。先日のブログは素足がテーマでした。

バスでは今ひとつわかりませんが、電車内で乗り合わせた人の足元を観察すると、その人の性格や時には部屋の中までイメージできそうな人もいて、おもしろいものがあります。ブログは、夏は暑さもあり、どうしてもストッキングは……という気分になります。それでも、就業時間内は素足でなくストッキングを身につけるのが常識ですよ、という苦言。社会全体が以前よりは緩くなり、カジュアルになってきている、と感じますが、ビジネスシーンにおいても、素足がおかしいとは思わない、という世代もでてきているかもしれません。以前、料亭で働く方のお話を読んだ中で、「若い方で素足で上がられる方も時々いらっしゃる。キッチリ掃除しているウチの畳を!と卒倒しそうになる。」とおっしゃっていました。お座敷であれば素足はタブー、とは知っておりますが、お店の方はそこまでショックを受けられるのか、と少し驚きました。テーブル席ではなく、お座敷の可能性もある場合は、白いソックスを用意しておくといいですよね。きっとそれだけでグッと印象がよくなります。

 

 

着て行くところなんてないから、とドレスを持っていない人は、いつまでもそんな場所へは行けない。と言います。白いソックスなら、コンビニでも100円ショップにでもありますが、ドレス、となるとそうどこにでもあるものではありません。加えてバッグ、靴、ヘアメイクを頼めるサロン。普段からいろんな情報をキャッチし、準備していなければ買えるお店すら思い浮かばなかったりします。ドレスを着こなすためには、ハイヒールに慣れておく、姿勢よく歩く、身体を引き締める。チャンスがやってきたときに「でもなあ…」と思わずにサラッと着こなせるように。そう、幸運の女神には前髪しかないのです。すれ違う瞬間には手を出さなくては。そんなチャンスはないから買わない、ではなく、買っておいてチャンスを探す、くらいの周到さがなければ前髪を掴み損ねます。ドレスに比べれば、ソックスを準備しておくなんて、容易いこと。食事マナーを学んだら、上司の会食の席に同行させてもらえることが急に増えた、という体験談がありました。ソックス1つといえども、もしかすると、後々にも評価も関わる大きなチャンスになるかもしれませんよね。

【ドレスコード】

 

いつだったか、インターネットでの検索中に、おもしろい投稿に行き当たりました。

『とあるホテルへ浴衣でディナーへ行ったところ、ホテルのエントランスで入れません、と断られた。名前の通ったホテルなのに、日本の文化も知らない。あまりに失礼だし、スタッフの教育すらできていない』という内容でしたが、ずいぶんご立腹な様子が目に浮かぶ、かなりの書きよう。。。季節としては、ちょうど今頃。浴衣でホテルのディナーに伺ったご様子。彼女はなぜ止められてしまったのでしょうか。そう、『浴衣』です。

 

毎年、夏のファッション誌には浴衣の特集が組まれます。着物専門誌は買わなくても、浴衣は比較的値段もお手頃ですし、着物の一種としては親しみやすい物かと思います。正直、今夏のファッション誌には、それは正しくはないよね、と思うことが多くて、ガッカリしたのも事実。ファッション誌にはそれぞれにターゲットの年代がありますが、12を争う販売数の雑誌であればこそ、正確な情報を発信するべきでしょう。

 

日本人でドレスコードに詳しい、と胸を張って言える人は少数でしょう。詳しくない私でも、結婚式でそれはいいの??と思う事もよくあります。簡単なものは、ブラックタイ、カクテルアタイア。選ぶ余地が少ない物は、決められたように着ていけば良いので(掛かる金額は別として)、悩まなくてすみます。悩みどころは、そこからカジュアル寄りになっていくドレスコード。スマートエレガンス、カジュアルエレガンス、ビジネスアタイア、スマートカジュアル…。何がスマートで何がカジュアルなんだろう……。多くの人が想像するいわゆる『カジュアル』と、ドレスコードにでてくる『カジュアル』が同じニュアンスではないですよね。

 

さて。和装でのドレスコード。着物の世界も芸事などの世界を除く一般人の着物は、ずいぶん柔らかくなってきました。その分、ドレスコードなどはわかりにくくなっているように感じます。キッチリと決められている世界は、窮屈ではあっても余計なことを持ち込めないので、ある意味楽でしょう。ブラックアタイア・カクテルアタイアともに、着物なら訪問着で良いでしょう。着物での第一礼装は、黒留袖。新郎新婦の母親が着る以外に、近年では着られることは無くなっていますが、実はとても華やかな着姿になる着物です。日本では既婚女性は訪問着ですが、海外のパーティでは既婚未婚関係なく振袖も華やかで喜ばれるでしょう。海外では日本のしきたりは関係ありません(と言ってしまっては身も蓋もないですが…)から、ドレスのデザインとして捉えてもステキかと思います。

 

ホテルエントランスで止められてしまった、浴衣。浴衣の語源が湯帷子(ゆかたびら)と言われるように、元は湯上りに着られていた家着のようなもの。旅館などでは、浴衣が用意されていますね。本来、外へ来て出かけるドレスコードのものではなかったのです。今の洋服でいうと、ジーンズにTシャツ・ハーフパンツ、サンダル、といったところでしょう。最近は美術館などでも、浴衣で来館の方は割引があったりします。夏祭りの日などは、お昼間から浴衣姿の若い子も大勢いますね。夏っぽくていいなあ、と思いますが、ものすごーーーく厳格に言うと、浴衣姿でお昼間に街中へ出かけるなんて、以てのほか!……となるでしょうか。本来の湯帷子からすると、お風呂上りのパジャマ姿で昼間に街中をうろうろしている、という状況ですね。このご時世、夏祭りの日に昼間から浴衣を着て、と突然お説教されるようなことはないでしょうが、おそらくしきたりの厳しい世界の方はされない事なので、もともとはそんなものなんだな、と知っていても損はないでしょう。

 

デパートなどで『高級浴衣。着物として着られます』というコピーをご覧になった事がある方も多いでしょう。高級浴衣って何やの?と思わなくもないですが。浴衣は、インナーの上に浴衣を着て、素足に下駄。高級浴衣、というものは、織り方や素材などもあるのですが、着物と同じようにインナーに長襦袢を着、その上に浴衣を着る。足元は足袋を履いて草履。いわゆる『着物姿』として着られます、というモノ。ファッション誌の浴衣特集の残念だったコピーがコチラ。『老舗の料亭でお食事会』。

 

長襦袢に足袋を履き、名古屋帯。どう見ても着物姿です。が、浴衣は『着物風』に着る事が出来ても、浴衣。着物になるわけではありません。おそらく、着物に縁がないわ、という方は浴衣なのか着物なのかわからないでしょうし、少々着物のことをかじっていても、浴衣なのか着物なのかわからないような反物もあります。ただ、老舗料亭と呼ばれるようなほどのお店の方は一目でおわかりでしょう。そこへ日頃から伺うようなお客様も然り。そう。老舗料亭と呼ばれるような所へ和装で伺うのであれば、キチンと夏の着物で伺うのがよいでしょう。着物風に着た浴衣。ジーンズにブラウス・ジャケットでハイヒール、といった『キレイめデニム』くらいでしょうか。洋服の『キレイめデニム』でもジーンズに変わりないじゃない、という感覚ならわかるでしょう。

 

着物風に着られます、という浴衣は『昼間に街中へ出て行っても恥ずかしくない浴衣』というスタンスと捉える方が無難。とは言っても、街中のシティホテルやラグジュアリーホテル、と謳う大半のホテルへは断られる事なく入れると思います。少し有名なフレンチのお店などでも、ドレスコードを明記しているようなところでなければ、まず大丈夫でしょう。ダメージデニムは無理でも、細身の色落ちのないジーンズなら入れるかも。そんな感覚でしょうか。ちょっと入るのに勇気がいる、というような一流ホテルとなると……微妙ですね。浴衣ではない『着物風』であれば…もしかしたら大丈夫かも??というのが個人的な感覚。私は、であれば『着ていかない』ですが。入れたとして、誰に会うかわからない、というのが本音。いいところほど、出入りされる方が違っていたりします。おかしいわよ、とは言ってもらえませんが、知らないのね、とは思われてしまいます。そう、迷った時は自分の頭にあるものよりも良い物を、というのが持論です。

 

着物の世界で、ムズカシイ!と思った出来事を一つ。

4月、5月頃は気候が良く、『着物は帯付きで』と言われる季節です。帯付き、というのは入学式などで見かける着物姿の事。着物・帯だけで、羽織物などのコート類を着ていない着姿のことを指します。私よりも一回りほど年上の方が京都へ行かれた時のこと。5月でも季節外れに暑い日が時々あります。着物にさらにコート、となると暑さが増します。日頃から着物をよく着られる方ですが悩んだ末に、コートは持たずに出掛けたそう。すると、地元の方に「帯付きでよろしなあ。」と言われて焦ったわ、と仰っていました。文字だけ直訳すると「帯付きで良いですね」となります。ですが、褒められた訳ではございません。「いいお歳をされているのに、帯付きで外に出るなんて、恥ずかしくないですか」というのが真相です(笑)いかにも京都らしいエピソード。

 

その昔、『帯付き』で街中を歩いているのは遊女など水商売の方だったそうです。京都はやはり代々の家系や芸事などに携わる方が多く、ほかの都市と比べて厳しいということもあるでしょう。滅多に着物を着ない人、には見えなかったことも原因でしょう。いかにも観光で来た若い子には仰らないでしょうから。私は、というと出かける時は必ず何かを羽織ります。大判のストールだったり、着物のコートだったりいろいろですが。理由は『隣に来る人がわからない』から。電車でも歩きながらでも。手にコーヒを持っている人、おにぎりやパンを食べる人。化粧を始める人。それだけで防げるものでもないのですが、多少の汚れ防止にはなります。先日は、隣に座った人がパウダーを取り出したのにはびっくり。ファンデーションにはしょっちゅう遭遇しますが、ケースをカサカサ振ってから取り出したパフをポンポン手で叩きながら余分なパウダーを払い落とし。さすがに着物や帯につけられてはね。

 

知っていて敢えてのドレスダウンと、何も知らない状態で着ているのとでは、やはり違います。ギリギリのところで線を引けるかどうか。これでいいのかな?という不安はどうしても見た目に透けてきます。何となくオドオドしているのと、ギリギリだけどセーフよ、と堂々といられるか。ギリギリが出来るようになると、カッコいいのよね、きっと。

 

 

【思い描く未来のために】

 

洋服、インテリア、俳優、食べる物……。

ジャンルは問いません。あなたが好きな物を20個あげてください。7つ8つはすぐに思いつく。そのあと15個くらいはなんとか絞り出して。20個がスルスルっと出てくる人は少数でしょうか。

 

学校や会社は4月が始まり。6月と言えば、梅雨だな、とか、なんとなく夏休みが見え始めるな、とか。新年度が始まって2ヶ月が過ぎ、新たな環境にもなんとなく慣れてきた時期。年度感覚で動く人が圧倒的多数な中ではつい忘れがちですが、

 

一年は1月始まり。となると、2018年度はスタートして間もないですが、2018年はすでに折り返し地点に近づいています。

この半年ほどで何かを成し遂げた!という感覚は皆無でも時間の流れの速いこと。ついこの間までワラワラ遊んでいた幼稚園児が、すっかり中高生になってしまって、道で出会っても本当に誰なんだか。。。自分の感覚と10年くらいは誤差がある、と叔父が言いますが、その通り。時間は無限にあっても、自分自身が使える時間が無限なわけではありません。人生が80年としても、すでに折り返しているので…ぼんやりしているとあっという間に終わってしまいますよね。

 

インスタグラムで見つけた、神戸マダム。80歳のようですが、姿勢も良くてセンスも良くて、とってもオシャレ。服装だけ見れば、40代とそう変わらない。それでも、けして違和感も無理しすぎじゃ??なイタさ感もなく。生きていればもちろん嫌なこともしんどいこともあるのですが、それも含めて日々の暮らしを楽しんでいる。そんな雰囲気が伝わってくるマダム。

何より、歳だから、とか、やってもわからないのよ、とかブツブツ逃げるのではなく、日々インスタグラムにランチやその日のファッションをあげている、その感覚の若さがステキ!

 

あまりにカッコよくてフォロー中。とっても参考になります。というよりは、いろんな刺激をもらっている、というカンジでしょうか。こんな風に元気に楽しく歳を取れるなら、素敵だな。

とてもオシャレなのですが、私が同じものを着たとしても、同じにもならないし似合わない、とある日ふと思ったのです。

おそらく、40代で同じものを着ていても、ちょっと貧相だったり、作業服のようにしか見えない人もいるだろうな、と。

 

白の麻シャツにベージュのチノパン、という『なんて事のない』コーディネートの写真。マダムはレディースのチノパンの雰囲気が好みではない、とメンズブランドのチノパンを履いてらっしゃる。そして、それがとっても似合っている。そして、麻シャツのボタンの開け具合もココ!というポリシーがある。

きっとそれは、有名な人がメンズブランドのものを履いていたから、とか、サイズがないから、とか、こっちのほうが安いから、とか。

 

そういった安易だったり、消去法や打算的な考えでメンズブランドに行き着いたわけではなく。

自分自身が好きなもの、心地いいもの。そういったものが自分の中に確立されていて、その上での結論がメンズブランド。だからカッコよく見えるのだろうな、と。

 

着物に『結城紬』というものがあります。多くの人が思い浮かべるツヤっとした絹ではなく、節のあるどちらかというとザラザラした手触りの織物。今では超のつく高級品だったりします。呉服屋さんが「1枚持っていれば、良いものを着ていると必ず言ってもらえる着物ですよ。丈夫なので、譲っていけます。」というセールストークを展開するような着物。どんな着物ですか?と尋ねた生徒さんに「洋服で言うなら、ナチュラル系の雰囲気」と言うと、実際に見たときに妙に納得してくれました。

 

これを自分で言っておきながら、自分自身も納得したのですが…。良いものということは肌触りなどでも十分にわかるのだけれど、どうも結城紬には惹かれない。手持ちにあれば、もしかしたら着るかもしれない。その程度。いくら安くしてくれても、買うほどのものではないよね、とずっと思っていた。そう、ナチュラル系の洋服は手持ちにあったとしても着ない。『落ち着かない』というのが理由なのだけれど。洋服で言うと、ナチュラル系。結城紬に惹かれない理由はそこだったのか。

 

あまり好きではない、実はよくわからない。そういったものでも勧められてそうかなあ?と買った物。

個人的には気の合うタイプではなさそうだけど、とても人気がある先生だから。SNSでよく見るから。

自分の基準ではなく、誰かの意見だったり、流行だったり、みんなが持っているから。そういった他人基準で選んだものは、はじめのうちは着たり使ったりしても、だんだん登場回数は減っていくもの。どんなにステキなものでも、いまひとつ馴染まなかったり。褒められてもなんとなく違和感があったり。

 

日々、素敵な物に囲まれて暮らしている人を見て、「上質な暮らしに憧れる」と数年前から言い続けている人。部屋ごと変わってもらったとして、また別の人が見て憧れを持ってもらえるか、というと、必ずしもそうでもない。それは、その人の中から生まれ出たものではないから。住んでいる人のスタイルがあってこその上質感だったり憧れだったりが見えてくるもの。

 

食べるものや洋服、靴・バッグ、タオルや器、消耗品であるティッシュや石けんまで。可能な限り『自分が気に入ったもの』を選んでみる。理由はこれといってないんだけど、なんとなく気に入っているもの。安いけど使い心地はいい、というのと、何でもいい、な行き当たりばったりではずいぶん変わってくる。

 

どうすればそんな風に素敵になれるのか教えて欲しいというコメントに、コツなんてない、自分で楽しいことを選んでいくのよ、というマダムの返事がありました。他人からもらったからではなく、自分で選んできた結果が彼女をつくっている。

 

よく言われることですが、自信とは自分を信じること。日々選んでいる物事は、食べ物から意思決定までかなりな量になるはずで、それをぼんやりなんとなく選ぶのか、こっちがいいと意志を持って選ぶのか。些細なことでも自分で決めることを続けていくと、直感で選べるようになり、選んだものに後悔しなくなります。好きなものを無意識で選び取れるようになるから。その選択にあなたのスタイルはありますか?

 

 

『女はボルドーワインと同じ。時間を 経て美味しくなる』歴史や伝統の楽しみ方

 

桜もツツジも。どの花もこの春は競うように早くに開きました。かと思えば、ひんやりした気温が続いたり。春はいつも不安定ですね。春の気候が落ち着いてくるとすぐに梅雨入りで、湿度気温ともに上がり始めます。暑さに対応するためには、今のうちから軽い運動などをして汗をかく練習をしておくと良いそうです。汗をかくことで身体は熱を逃がすのですが、これができないと体内に熱を閉じ込めることになってしまいます。同じように、夏のお風呂上りに暑いから、と扇風機の前で冷やしたり冷房の効いた室内に逃げ込むのも、身体には良くないそうです。自然と暑さが落ち着くのを待つのが良いそうですよ。

 

暑い時は、仕事終わりや湯上りにキンキンに冷えたビールをクーッと飲むことが楽しみ、という方も多いでしょう。美味しそうだなとは思うのですが、どうもビールが飲めません。同じく、焼酎や日本酒もニガテ。学生の頃はそうでもなかったのですが、チューハイ系も飲めなくなり…。アルコール類の中で飲めるのは、カクテルかワイン。そう言うと決まったように、上品ね、という(なんだかビミョウな)反応が返ってくるのですが。酒類の中では比較的そういうイメージではあるかもしれません。

 

ワインといえばフランスですが、最近は新世界と呼ばれる、カリフォルニアやチリワインなどの輸入もぐっと増えて、リーズナブルなものも多くなりました。安いとは言え、美味しくないわけではなく、素敵なワインがたくさんあります。日本ワインの代表種である甲州からも、美味しいものが本当にたくさん造られています。新世界でのワインの歴史はこれからですが、ワインそのものの歴史は紀元前3100年頃のエジプト王朝にまで遡ります。フランスのイメージが強いワインですが、南フランスへ伝わったのは、紀元前600年頃。イエスキリストの最後の晩餐での、パンは私の身体でワインは私の血である、という話は有名ですね。それから、キリスト教の儀式に欠かせないものとなったワインは、修道院で造られるようになります。瓶やコルクの発明により、ワインの普及は拡大していくことになります。数千年も受け継がれてきているワイン。

 

パリジェンヌ、というと日本人からは憧れの対象。ファッション誌などでも度々取り上げられます。日本では、どうも若いことが良いことのように言われがち。けれども、フランスでは『フランス人は歳をとるほど美しい』と言われます。ドラ・トーザンのこの著書では、冒頭に、『女はボルドーワインと同じ。時間を経て美味しくなる』と書かれています。ワインの歴史が古くからあるように、歴史や伝統あるものを受け継いできた土壌があるからこそ、なのかもしれません。だからと言って、ただなんとなく歳をとればいい、という事ではなく。ワインも、ヴィンテージが古いものが良いのではなく、温度や湿度など、最適な条件のもとで熟成されたものであるからこそ価値があるのであって、そのあたりに放置していては熟成どころではありませんよね。チーズだって、いろんな条件のもとで醗酵したからチーズになるのであって、放ったらかしで出来上がるわけではありません。人間だって、それなりの努力を重ねるからこそ、素敵な女性になれるもの。

 

着物を着る人、とわかると自宅にある着物を下さる方がいます…わりと多数。。着物は代々譲っていけるもの、着物にはサイズは関係ないと思っている人も多数。いや、ほとんど、でしょうか。加えて、流行はないと信じている人。洋服のように2年ほどでコロコロ変わりはしませんが、さすがに10年経つと変わります。くれる人は、ご自分では不要で、でも高かったし親が買ってくれてるし、棄てるのは気がひける。…そんなところでしょう…。30年前の洋服なんだけど、と他人にあげる人は少ないでしょう。いただいたとして、そのまま着ないですよね。一度は洗いたい。洋服のクリーニングはさほどではありませんが、30年しまいっぱなしの着物は、色焼けやカビ、シミなど着られる状態のものは少なかったりします。洋服だと防虫剤を入れ替えても、着物は本当に手付かずで仕舞いっぱなしという人が少なくありません。不思議なことに、一度もたとう紙から出していなくても、シミが出来たりカビが生えたりします。高額なものほどせっせと使うのが一番コストパフォーマンスが良いのです。お持ちの方は、ぜひせっせとお召しになってください。

 

ワインもチーズも着物も、実はよく似ています。それぞれの地域の気候に合わせられていて、伝統があって。安く済ませようと思えばそれなりに、ちょっと手を出しづらいような高級品で自慢したり。ワインなら、着物ならなんでもいい、コレが好きというお気に入りを見つける、ワインから始まってフランスの歴史や文化も学んでいく、着物ならどんな方法で作られているのか。。。食べるだけ着るだけ、はたまたそこから何かを学んでいくのか。歴史のあるものだけに、小難しいことや堅苦しいことも多かったりするけれど、背景を知ると知らないとでは、楽しめる度合いがガラリと変わる。

 

浴衣=着物、と思っているとレストランの入り口で止められてしまう。でも、浴衣はジーンズクラスのカジュアルなもの、ということを知っていればふさわしい着物にチェンジできますよね。シャンパーニュとスパークリングワインの違い、不知火とデコポンの違い。実はそんな些細な違いだったりするのにね。

 

最初から難しいしわからない、と決めてかかるとそこから先は何もないまま。一歩踏み入れてみれば、実はそんなに難しくはないし、教えてくれる人はけっこういる。何より、脈々と受け継がれてきているものには、それだけの風格がある。その重みを愉しめるようになると、人生の幅は一気に拡がります。ワインのテイスティングさえ知っていれば、レストランで余計な緊張をせずにすみますし、「すごくいい香り」そう言ってソムリエさんの方を向けば、いろいろしゃべってくださいます。着物もワインも、ちょっと近寄りがたい。でもちょっぴり勇気があれば、いろんな楽しみ方を見つけることが出来る。そうは言っても。。。と思うアナタ。ぜひワインでもご一緒に。着物はともかく、ワインはシロウトです。でも楽しいですよ

【こども車椅子マーク  ご存知ですか?】

 

韓国・平昌で開催された、冬のオリンピック・パラリンピック。開催前は何となく不穏な政治色が濃くてスッキリしませんでしたが、特に大きな事件もなく、無事に終わり何よりでした。一昔前は、考えられなかったようなテロや事件が頻発する昨今。決して日本も例外ではなくなってきたと思います。

 

パラリンピックは、何かしらの障がいを抱えた方たちの大会。生まれつきであったり、事故などである日を境にだったり。想像もできないほどの葛藤や努力もあっただろうと推察することしかできませんが…。いろんなメディアに積極的に出演している方たちは、自分がインタビューを受けたりして世の中に周知されることで、他の人の力や理解になれば、ということを仰っていました。盲導犬と外出している方を見かけた知人が、手伝えることが何かあるかも、と思ったけれどどうすればいいのか考えてしまった、と話していました。

あることに対しての理解や知識があるかないか。それだけでもさり気ない対応が出来たりします。

 

少し前、電車内でのトラブルで刺傷事件がありました。加害者の犯行理由は『優先座席に座っていた男性に腹が立った』から。

刃物を持ち歩いているのにも、その理由で斬りつけるのにも、なんだか納得がいきませんが。。。電車やバスでの優先座席。妊婦や体の不自由な人、年配者へ優先的に利用してもらうように設置されているもの。妊婦さんは、マタニティマークの浸透もあり、見た目にわからなくても理解されるようになりましたよね。そもそも、他人からはわからない、6ヶ月くらいまでの時期の方が辛かったりもします。体の不自由な人、とひと口に言っても、外的なものから内的なものまで様々。見た目に元気そうな若い人だから何の不自由もないかというと、誰もがそうではありません。

 

最近、ある方のSNSへの投稿で知ったマークがあります。こども車椅子のマーク、ご存知でしょうか。障がいで歩くことが困難なこどもたちのために、大人の使用する物とは違った車椅子があります。高額なため、まだ幼い子たちは、一般的な幼児用バギーを使用していることも多いようです。ベビーカーも、バスや電車内では邪魔、と折り畳んで乗車するべき、という意見があります。もうね、そういうことを言う人は3日くらい乳幼児と二人で車を使わずに外出してみればいい。だって、これを経験したママ達なら同じことは言わない。乳児一人に必要な荷物だけでもかなりの量。こども、荷物、ベビーカー、ママの荷物。身一つで自由に動ける人とは違うのだから。

 

 障がいのない子どもを連れ歩くのにも、かなりの荷物。車椅子が必要な子たちであればさらに必要なものが加わるでしょう。そもそも、車椅子が必要な子たちは、降りるという選択ができない。そこへ見た目だけで判断して降りろ、バギーは畳んで、なんて。一般社団法人 mina family。病気や障がいのある子どもとその家族のためサポートを目的として設立された、社団法人。代表の本田さん自身も、障がいのある子どもを持つ母。ご自身のいろんな困った、から始まった活動だそうです。

 

この、こども用車椅子。どれくらいの重量だと思われますか。1090キロもあるそうです。それだけの重量が必要だと言うことでしょう。10キロあれば、片手で持ち歩くことは困難です。寝たきりの状態で使用するものであれば、そもそも畳むという構造ではないはず。なのに、病院関係者にさえも、ベビーカーは折り畳んで、とか、持ち込まないで子どもは椅子に座らせて、と言われることもあるそう。どれほど悔しい辛い気持ちになるか。貧困問題と同じく、周りの理解のなさ。たったそれだけで。「車いすの我が子の手を握りながら、病院の片隅や駅のホームで泣いているお母さんをもうこれ以上増やしたくないんです(mina family HPより)」生活が快適で便利になり、世の中はどんどんスピードと効率が求められるようになりました。その分、周りへの気遣いや優しさ、お互い様という気持ち。そういった潤滑油のようなものが少なくなってきたようにも感じます。

 

自分の目に見えていることだけが全てではない。何一つ問題も悩みもない人なんてきっといない。でも、何かを手伝う勇気は無いかも。だったら、こんなマークあるの知ってた?そんなふうに誰かに聞いてみるだけでも、知ってる人が一人増えますよね。大事なことは、知ってる人が増えることなんですから。

 

 

【こどもの貧困】

先日、友人宅でのホームパーティで、世界こどもサミットを主催されている方に出会った。

『こどもはみんな天才生まれてきてくれてありがとう!』という理念のもと、才能を認めて伸ばす、可能性を最大限に発揮できるように大人はこども達の意見に耳を傾けシェアする、という活動。

20171123日に第一回が伊勢で開催され、今年は55日、東京で第2回世界こどもサミットが開催予定です。理念としてはとても素晴らしいと思う反面、本当に支援や理解が必要なこども達はどうすればいいのか、と考えてしまいました。

 

一億総中流社会、と呼ばれた一昔前の日本。

今は真ん中の抜け落ちた両極端な社会と言われるようにもなりました。

こどもで見ると、6人に一人は貧困層と言われています。

 

家族構成にもよりますが、年収が300万円以下であれば低所得とされており、労働人口の4割以上がこれに該当すると言われています。母子家庭ではさらに低く、年収150200万円程度の世帯が大半とも言われます。そうは言うけれど、そんな6人に1人の割合で貧困かと思う人も多いでしょう。

 

今の子達は、ファストファッションや百円均一ショップ、リサイクルショップなどで買い物をしたり、オシャレをしたり、スマホも親との連絡手段として持っている。見た目にはわからない。

そう話すのは、数年前から子どもの貧困問題に関わり、支援活動を続けている、NPO法人PIECES理事の荒井さん。当人であるこども達も、中学を卒業するまでは、ウチはそこまで貧乏じゃないと思っている事も多いようです。高校へ進学して、生活のためにアルバイトをしなくてはならずに友達と遊べなかったり、勉強についていけなくなり、中退してしまったりする。学歴がなく、アルバイトを転々としていると、キャリアも身に付かない。見た目では、貧困問題や家庭の問題などがわからない。普通のお家の子、と思われているから援助なども届かないし、気付きもされない。そうなると、誰も気づかないまま社会から取り残されてしまう。転居を繰り返しているうちに、住民票の手続きやこどもの就学手続きが滞る。そうすると、こどもの存在すら誰も知らなくなってしまう。実際に転校後の行方が分からない、そんなこどもも少なからずいるようです。

 

女性活用や働き方改革を提唱している政府。それでも、管理職や政治家の女性の比率は上がらず、非正規雇用が増える一方。正規社員は、過重労働で疲弊。裁量労働制の資料のずさんさが取りざたされていますが、残業代がなくなると生活していけない、という方も実際問題として少なからずいるだろうと思います。トップに就く女性たちを増やすことだけが女性活用ではないはず。育児と家事と仕事で仕事を捨てざるを得ない人を減らすのには会社の管理職や同僚、そして父親の理解と協力が不可欠だし、シングルマザー世帯の貧困問題には、世間の目と理解が必要。高校を中退せざるを得ないような子どもがいるということ自体、日本の未来の人材育成には大きなマイナスとなっているはず。

 

なんとか高校を卒業して奨学金制度で大学を卒業しても、いまは奨学金返済による自己破産が増え続け、保証人になっていた親や親族の連鎖破産までもが増え続けている実情。返せていないのは、それだけ収入が少ないということでもあります。当たり前のように新聞で取り上げられていることですが、今の政治家には新聞やニュースをチェックする習慣がないのかしら。

 

大事なのは、貧困対策よりも理解のある普通の人を増やすこと。ひとり親の支援をしているインクルいわてはそう言います。こどもだけでなく、親も社会的に誰かと繋がれる場所が必要で、支援や制度の利用、人とのつながりを提供できるのがこども食堂でもある、と。単身の高齢者が足を運ぶことも増えているそうで、子どもも大人も安心していられる場所が少なくなっているのかもしれません。

普通に暮らしているこどもたちがさらに輝けるように、というのもステキですが、すべてのこどもたちが普通に何の心配も無く暮らせるように。そんな日本に、世界になるように。一人でも多くの人が周りに気を掛け、理解してくれる事を願います。

 

 

【牛は牛らしく、人間は人間らしく】

 

衣食住。生活の基本、と言われます。人によって、一番重要な物は、それぞれでしょう。が、どれが欠けても、あるとないでは、環境は激変します。

生活するうえで、どれも欠かせないモノ。

『生きていくうえで』となると、最重要な物は、やはり『食』でしょうか。『衣』『住』があっても、食べる物がなければ、どうにもなりません。

 

普段、食材を買っている方はもちろんお気づきでしょう。秋ごろからの天候不順での、野菜の高騰。

新聞では、例年の23倍の価格、とありましたが、そんなどころではありませんよね。

 

冬野菜の代表のような、白菜。例年の価格だと、一玉が200円前後でしょうか。今年は半カットで400円超。数年前の野菜の高騰時で、一玉が300円超だったかしら、と思うのですが…。一玉で800円とは。。。レタスも、手のひらに乗るサイズで150円近くに。今の高値は=高品質、ではないだけにさらに痛いところですね。。。

 

野菜や魚に比べて、家畜の生育環境は、あまり想像されないのではないかと思います。ヨーロッパで進みつつある『アニマルウェルフェア』、動物福祉畜産。動物に福祉…今一つピンとこない、という方も多いでしょう。

 

なんとなく、牛や豚・鶏は、牧場で放し飼いにされて、のんびり暮らしているようなイメージですが…。アニマルウェルフェアは、そこを目指そうというもの。動物の生態を尊重し、快適でストレスの少ない生育環境を整えることが目的。牧場で放し飼いにされて牧草を食べている。そんな誰もが思うような環境で育てられていないのが現実。牧草で育った牛は、わざわざ『グラスフェットビーフ』として、高値で取引されています。多くの畜産農家では、牛舎に牛をつないだまま。乳牛だと、一頭あたりの生活スペースは、2.4平方メートル未満。鶏は、羽を伸ばすことも歩くこともできないサイズのケージに入れられたまま。軽いラッシュ時の電車くらいな詰め込み具合。

 

北海道で乳牛を育てている、小栗隆さん。

アニマルウェルフェアの取り組みを始めた、1997年。

 

牛舎から出した牛たちは、歩き方も牧草の食べ方すらもわからなかったそう……。歩くことすらできない牛からの牛乳と、放牧で自由に育った牛からの牛乳。どんな味を想像するでしょうか。同じだけの栄養があると考えるでしょうか。

 

野菜、魚や肉。何かしらの生命と引き換えに生きている訳です。スーパーにパック詰めされた状態、しか知らないという人も少なくないハズ。自分の生命をつないでいる物に対して、あまりにも無関心な人も多いと思います。

小中学校の社会見学で、家畜の屠殺見学があったとして。きっと、残酷とか、子どもが受けるショックなどを理由に少なからず批判や反対の意見が出るかと思います。でも、その過程がなければ、スーパーにパック詰めの状態で売られていることはありません。

 

生きることに対して、無気力だったり、ネガティブだったり。そんな人もずいぶん多くなったように感じますが、生きる意味がわからない、なんて、それまで食べてきた命に対してずいぶん失礼な話ですよね。

 

「牛は、数年後に、自分の身に何が起きるのか、その運命を知らない。最後の瞬間も、そうとは認識しないだろう。それなら生きている間、世界一幸せに暮らせるようにしてあげたい。」同じくアニマルウェルフェアで肉用牛を育てる、八雲牧場の寳示戸(ほうじと)さんのお話です。小栗さんは、アニマルウェルフェアに切り替えた結果、「牛は牛らしく、人間は人間らしく生活できるようになった」と。『牛らしくない生活をしていた』、牛。おおよそ健康だとは想像しませんね。

 

孤食・個食などが増えたと言われます。それを防ぐための食育。

それよりも前に、自分が食べている命にもっと感謝しなくちゃいけない。

 

食べる物の命に敬意を払える人は、他人の命に対しても敬意を払えるはず。そんな人が増えれば、文化だとか国だとか、そんなことに関係なくもっと他人を理解できるだろうし、そうすればもっと柔らかい世界になる。そうなれば、幸せだと思える人も増えると思う。全ての人が人間らしく生きられる世界でありますように。イージス・アショアの不要な世界となりますように。

 

 

【変わらないね。のために変わり続ける】

 新年明けましておめでとうございます。

あなたにとって、実り多き年でありますよう、祈念いたします。

 

 松の内の間くらいは、何かにつけて「初〇〇」と言われます。初夢、書き初め、初出勤。茶華道では、初釜、初生け式。初、という一文字がつくだけですが、なんとなくピリッとした気分を感じます。子どもの頃、『習わされていた』感覚しかない、茶華道。数年間にわたりお稽古を続けていたにも関わらず、憶えているのは帛紗のさばき方くらい。

 

 子ども心ながらに「この先生、ニガテ…」と思っていたので、なおさらかもしれません。今更ながら、お稽古に通い始めたのですが、全くのゼロからとはやはり違うようで、その意味では多少は身に付いていたのかもしれません。社会人として中堅くらいになると、それまでとは違うお付き合いが出てきたりします。漫才師のハイヒールのモモコさんが著書の中で「茶道の作法を知っていて、どれだけ得をしたかわからない」というようなコトを仰っていました。一つを極めている方もステキですが、いろんな方とお付き合いをしていくうえで、広く浅くいろんなことを体験しておくのも大人のお付き合いには重要かもしれません。

 

 全く知らないコトは、質問すらできなかったりします。よくお茶席へどんな着物を着ればいいですか?と質問を受けます。茶道の初釜であれば、なおさら服装は着物!なイメージでしょう。着物であればなんでもいい、というわけではございません。よく、ネットの掲示板でお稽古を始めてから初の初釜に何を着ればいいか。そんな質問がゴロゴロあります。

 

 なぜ習っている先生に聞かないのか不思議なのですが。一番確実に、かつ正確に教えて頂ける方ですのに。茶華道の世界などは、師匠の物よりも良い物は着ない、というルールもあります(暗黙的なものかもしれません)。単に、これなら格も高いし大丈夫よね、なものでもないのです。パーティなどでもそうですが、ドレスコードを間違えて恥ずかしい思いをするのは、当人ではなくお誘いくださった方。茶華道などの伝統文化の世界ではさらに顕著で、恥ずかしいどころでなく先生の信用度にまで響きかねません。

 

 ……とこのような事を書くと、さらに「だからお茶とかイヤなのよね」と思われそうですが。今はカルチャーセンターなど、比較的気軽にお稽古ができます。まずは、そんなところから始めてみるのもいいですよね。

 

 『守破離』という言葉があります。茶華道や武道などの師弟関係での芸事で使われてきた、その道を習得するうえでの心構えのようなもの。『守』は、師匠の言動や型をキッチリ真似をして守る。自分の考えは後にして、基本を忠実に身につける。スポーツでも勉強でも習い事でも、基本が身についている人は、伸びていけます。『破』は、守ってきたものを打ち破って、自分の個性を発揮し、自分なりの形を作り出していくコト。ルールも知らず、ドリブルも出来ないのに、望んだところで試合にはでられませんよね。『離』は、それまでの流派や流儀にとらわれるコトなく、新しいモノを創り出すコト。華道に〇〇流、未生〇流、など、流派の数が多いのもこのためでしょう。

 

 よく、歳を取っても変わらない、というようなことを言います。概ね、褒め言葉として使われます。本当に変わっていないのであれば、ただ成長していないだけ、ということになります。変わっていないのではなく、昔のイメージを保つための、なんらかの努力があったりします。外から見ると、何も変わっていない旧態依然としているようにみえる伝統芸能の世界。確かに、なんとかする方がいいのでは、という面もありますが、途切れる事なく受け継がれてきているものには、それなりの理由や魅力があります。もちろん、茶華道などの師匠だからといって、人間として尊敬できるかどうかはまた別問題。やはり、信頼できる人から習うべき。良い人に出逢うと必ず成長します。教えて貰うということは、自分自身の時間をその方に使っている、ということでもあります。あまり意識はしないでしょうが、時間があるのは生きている間だけ。何かに時間を使うという事は、自身の命を使っているのと同じコト。ツマラナイことや物、人に時間を使うのはもったいないと思いませんか?

 

 新年を迎えるにあたり、いろんな目標をお持ちでしょう。自分自身の好きな事、わからなければ不快ではない事。綺麗だと思う物。ステキだなと思う人。そんな事にも意識を向けて生活してみると、きっと生活が変わり始めます。

 

 

【ルミナリエ   震災後の光と影】

 

12月は例年よりも寒いでしょう、という短期予報でしたが、本当に寒い日が続きます。

 近隣の幼稚園などでは、学級閉鎖も出てきているようです。

 風邪をひいてしまってからよりも、ん?という頃に薬を飲むとよく効きます。

 風邪をひいた、と内科や小児科を受診する人が多いかと思います。

 咳、発熱、鼻水、などの風邪症状の時は、耳鼻科の受診をお勧めします。

 母は、耳鼻科の薬はキツイ、と嫌がりますが…。

 

緩めな内科の薬をしばらく飲み続けるよりも、キツめでもサッサと治る方がいいのに、と内心思って    おります。乳幼児は、風邪の後、いつまでも機嫌の悪いときがあります。

 中耳炎になっていることも多いので、その意味でも耳鼻科はオススメです。

 

首の付け根あたりを温めるのも風邪に効果的ですよ。

 

神戸もずいぶん寒い日々ですが、今年もルミナリエの開催真っ只中。

 点灯式は雨。その後は極寒の寒空。

 周辺道路は封鎖の車両通行止め。

 ルミナリエ一つめのアーチをくぐるまでに、数時間待ち。

 夢より何より、寒さでアウトなワタクシ。。。。

 

 

阪神淡路大震災の鎮魂で始まったルミナリエも、今年で23回目。

 今なお、特別な思いを持ってルミナリエを迎えられる方も多いでしょう。

 致し方ないのかもしれませんが、年々当初の意味合いが薄れているように感じます。

 19951月に震災が起こり、同年12月にルミナリエを開催。

 

あれだけの被害のあった、三宮・元町周辺。復興の速さ、という意味ではそれなりのメッセージを発したでしょう。でも、近年はどうしても商業色が前面にでているように思えて仕方ありません。毎年、資金難で翌年の開催有無が話題となります。新聞・ニュースなどのメディアでも取り上げられるので、神戸近辺の方ではなくてもご存知かもしれません。

 

ルミナリエは、もちろんキレイですし、行けばそれなりにホンワカ温かな気持ちになります。

 が、どうしても、ココロのどこかでモヤモヤしてしまいます。三宮・元町周辺を歩いていても、思い出すことはないのです。長田区あたりを歩くと、「ああ、地震で全部なくなったんだな」とふっと思います。記憶にある方もいらっしゃるかもしれませんが、地震後の大火事で焼け野原のようになった、長田区。

 

震災後に新たな商業施設ができ、ビルが建ち、どちらかというと、人情味ある下町風情だった長田の見た目はずいぶんキレイになりました。商売を止めた人、転居した人。ハコモノは戻っても人は戻り切りません。キレイなのに、人の気配が少ない、なんとなくガランとした空間。

 

震災後、20年以上が過ぎた、復興住宅。神戸市は明け渡しを求めて、入居期限の切れている入居者を順次提訴。退出を迫られても、行く当てのない人も今だいらっしゃいます。行く当てがないから住んでいる、という人がほとんどかもしれません。毎年、ニュースに取り上げられるルミナリエ。一方で、復興住宅のことは、裁判の時にチラッと出てくるかどうか。ルミナリエ開催にかかる費用は、毎年約5億円。入居中の復興住宅の維持管理に年間幾らかかるでしょう。同じ震災後の問題なのに、この差はなんなんだろう、とルミナリエを見るたびに思います。話題性の高いニュースは、つまらなくてもどのマスコミもこぞって取り上げます。

 

もうそれはええねん、というくらい。そうではなく、声をあげたくてもどこへも言い出せない人。本当は真剣に考えるべきことなのに、大手マスコミが取り上げようとはしないコト。

ともすれば、社会からこぼれおちてしまいそうなコト。そんなところを拾い上げるコトができる。真咲映像財団がそんなマスコミであって欲しいと願います。


【自分をリセット出来る何かを】

はじめまして。こちらのコラムを担当します、Ricoです。

 

神戸市在住。というと、三宮近辺を想像される方が多いのですが、かなり山手でございます。ほんの数ヶ月前にはカケラも考えもしなかったことが多くて、人の縁の不思議さをふと思います。元来、常に誰かといるより一人がいいタイプ。

ブログを始めなければ、日常生活の中で絢子さんと出逢うことはなかったでしょう。そもそもブログを、と思ったのは、M先生と出逢ったから。

 

そのM先生に出逢うキッカケは、というとカルチャースクールの広告でした。「出逢いがない」という話はよく耳にします。ナイのではなく、『見ていない』のですね。遡れば、絢子さん始め、真咲映像財団とご縁をいただいたのは一枚の新聞広告だったのですから。

 

自分が妊娠したとたん、街中を歩く妊婦の数に驚いたり、毎日のように通る道の一角が空き地になったのに何が建っていたのか思い出せなかったり。見る気があるかないか。幸運の女神には前髪しかない、と言われる所以かもしれません。ボヤボヤしていると、どんどん女神が通り過ぎてしまいます^^;

 

とは言うものの、子どもにまでスマホ・携帯が普及し、日々おびただしい量の情報を取り扱わねばならない昨今。キラキラ系の女子、リア充、インスタ映え…。

上手くスルー出来れば良いのですが、モヤモヤに取り憑かれている人も多いでしょう。『自分がスッキリできる事』を知っているとずいぶん違いますね。

 

眼診をご存知でしょうか。舌診という、舌の状態で体調を診る方法がありますが、眼診眼動きで性格・不調箇所・気質などがわかる、という不思議なモノ。以前診て頂いた時言われた、疲れた時の対処法。「美しいものを見る。誰かと一緒だと、さらに疲れるので一人で。」そう言われると、美術館や博物館、一流ホテルのロビー、レストラン。そんなところが昔から大好き。

 

人が少なければなお良し^^; 御影にある、香雪美術館。駅から美術館までのこの通りもステキ 御影と聞くだけでテンションの上がりそうな豪邸の多い、阪急沿線。香雪美術館は、朝日新聞社の創業者・村山龍平氏のコレクションを収蔵し、1973年に開館。現在は、公益財団法人として、美術文化の向上のための様々な支援も行っています。

 

茶室もある、入り口までの庭。四季折々本当にステキです。少し大きな家、という広さなので美術館にはこじんまりしていますが一日居ても平気な、お気に入りの美術館。現在は、『利休と剣仲―千利休と籔内剣仲―侘数寄の心』と題した展覧会会期中(今月17()まで)茶道をされている方なら、とっても楽しめるのではないかと思います。